書評『発見!ユダヤ人埴輪の謎を解く』

論壇2: 書評『発見!ユダヤ人埴輪(はにわ)の謎を解く 』  5/2/2021

先週ある教会の元長老から標題の本をいただきました。大変面白い本でしたのでご紹介し、書評を記します。教会図書に献本しておきますのでお読みください。

著者は田中英道(1942年生まれ)。美術史家で東北大学名誉教授です。古い漢字がたくさん使用されていますので読むのは少し難しい本でしたが、著者の主張を私なりに分かりやすく箇条書きにすると次のようになるでしょう。

①、古代日本民族のルーツの一つとして大陸からの渡来人がある。これは中国人、朝鮮人であるというのが定説であった。しかしAD1世紀にローマ帝国から追放された離散のユダヤ人の一部は「大秦国(ローマ帝国)の秦氏」と名乗り、騎馬民族と一緒に中央アジア → 中国 →朝鮮 → 大和へと東進し、最終的に関東に定住し日本人に同化した。

②、ユダヤ人はエデンの園追放以来「離散」が民族性となり、国を造ろうとはしなかった。ユダヤ人はどこででもその地の民族に同化した。

③、芝山遺跡は九十九里浜に近い。このビーチこそ海から上る朝日を礼拝するにふさわしい場所。人類は原初から太陽信仰を持っていた。

④、秦氏の祖先である秦の始皇帝(BC259―210)もユダヤ人であった。秦氏は東からの渡来人として雄略天皇(5世紀)に重用された。秦はハタとも呼ばれる。ハタ=ハダ=ユダ。波多と当て字すれば朝鮮に伝わったネストリウス景教の「波多力」(司祭)になる。

⑤、高天原(たかまがはら)は関東にあった。「倭国は古の倭の奴国である…日本国は倭国の一種族である」(『旧唐書』)。従って秦王国とは日本国であった。邪馬台国はなかった。

⑥、千葉県には古墳が12750基ある。これは奈良県(9617基)よりはるかに多い。人物埴輪の出土分布は圧倒的に関東に多い。芝山遺跡から美豆良(みずら)をしたユダヤ人の風貌を持った人物埴輪が多く出土している。ユダヤ人はびんの毛を切らない(レビ記19:27)。

⑦、縄文・弥生時代の日本に馬と羊は存在しなかった。騎馬民族の渡来人が5世紀頃持ち込んだ馬はとても珍しかったろう。それが群馬県の名の由来にも表れている。

 

書評(立石の批評)

①、著者は離散のユダヤ人について、アッシリア捕囚(BC722年)、バビロン捕囚(BC587年)、クラウディウス帝によるローマ市内からのユダヤ人追放令(使徒言行録18:2、AD41―54年)、エルサレム戦争によるユダヤ人追放令(AD70年)、バル・コクバ反乱によるエルサレム追放令(AD135年)などをごっちゃにしています。中世ヨーロッパ諸国では皇帝の気分一つで、ゲットーのユダヤ人は追放されている。

②、ユダヤ人はカナンに国を造ることが最大の神の命令だった。ユダヤ人がなぜ憎まれて離散したか。それは信仰のゆえに決して他民族に同化しなかったから。律法を破るくらいなら彼らは死を選んだ。

③、ユダヤ人は太陽崇拝信仰(東進説根拠)を持たない。天地創造物語は、太陽は人間のための照明道具にすぎないと「非神話化」している。太陽信仰なら九十九里浜まで来なくても中国の東海岸で十分可能。

④、バビロンに定住したユダヤ人の多くはさらに東進したろう。なぜなら彼らは東方地域との交易を生業としていた。中央アジアの騎馬民族に溶け込んだユダヤ人がいた可能性も高い。始皇帝はその風貌ゆえにユダヤ人であった可能性もある。それらの子孫が日本まで渡来するのは別の理由(モンゴル、中国、朝鮮の東進に同行)。

⑤、へーそうなんだ・・

⑥、勉強になりました。このような珍しい風貌をした武人が多くいたから埴輪になったのか、めったにみることができない人物で偉大な功績をした人だから、顕彰して記念するために作られたのか。どう考えるかはその人のコモンセンス。

初代教会でバルナバが畑を売って献金したのは、多くあった出来事の代表例として記録されたのか、めったに無い貴重な事例だから記録されたのか(使徒言行録4:36)。これは読者のコモンセンス。

⑦、馬の渡来は5世紀。群馬県の命名は明治4年。郡はくるまの音読みの当て字。「車評」(くるまのこおり)→ 「車郡」→ 群馬(くるま)郡→「群馬県」(群馬県のホームページより)。確かに馬もいたでしょう。群馬を「くるま」と読むのは初めて知りました。

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