礼拝論 1

論壇:        「礼拝論、1」        2/18/2018

来週『魅力的な礼拝へのかぎ』をテキストにして全員懇談会で学ぶことになりましたので、再び礼拝論を考えたいと思います。『まじわり』誌の私の連載(バックナンバー451~455号、2003年)、私の『論壇集』1、69~73頁、2、53~58頁、145~148頁も参照してください(販売図書)。

公的礼拝の構成要素は、私たちの憲法「礼拝指針」によれば「御言葉による招きと祝福、神の民の音楽と歌唱による賛美・祈り・信仰の告白・罪の告白と赦しの宣言・聖書朗読・神の御言葉の説教・ささげもの・洗礼と聖餐の礼典執行、報告など」とあります(9条)。

つまり公的礼拝は、神の招きとこれに応答する民の、両者の交わりです。神は御言葉の朗読と説教、聖礼典(洗礼と聖餐式)によって私たちに御自身を啓示してくださり、民は罪の告白、賛美、祈り、ささげもの、信仰告白によって応答するのです。

公的礼拝最初のプログラムは「招きの言葉」です。神が「来よ」と招集され、これに応じて私たちは集まるのですが、罪ある私たちが聖なる神の前に出ることができるはずがありません。イザヤが神の前で「災いだ。私は滅ぼされる」と震え上がったとおりです(イザヤ書6:5)。しかし天使が祭壇の炭火をイザヤの唇に触れさせたので、罪が赦され(6:7)、ここにイザヤの神礼拝の条件が整いました。

公的礼拝は神が人を招く神のわざですが、罪人である人間は神の前に出るにふさわしくありません。「人はわたしを見て、なお生きていることはできない」(出エジプト記33:20)と言われた方の前に、私たちは本当の畏れをもって集まっているでしょうか。「聖なる神と罪人との交わりとしての礼拝」はいかにして成り立つのでしょうか。このギャップを埋めるのが、イエス・キリストの十字架の血です。これによって私たちは罪赦され、清められ、礼拝に招き入れられます。

けれども、だからと言って、私たちはこれを当たり前のように無自覚的に受け入れていてはなりません。そこで重要になるのが「罪の告白の祈り」です。 私たちが自分の罪を「赦してください」と祈るのは、自分がこの場にふさわしい者ではないと信仰告白しているのです。そのような私たちに向かって「罪の赦しの宣言」が語られるから、私たちはその礼拝の中に自分の座を確信できるのです。従って礼拝プログラムのトップ「招きの言葉」の次に続く重要なものが「罪の告白」と「赦しの宣言」です。私たちの礼拝ではこれを会衆の告白文として独立させていますが、これを長老による「牧会祈祷」の中に入れる方法もあります。しかしこの二つのプログラムは不可欠のものです。

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