論壇: 「礼拝論、2」 2/11/2018
公的礼拝のプログラムでは神からの啓示(発言または発信)と民の応答が交互に構成されます。これを図式化しますと下記のようになります。
神からの発信=招きの言葉、罪の赦しの宣言、聖書朗読、説教、聖言、聖礼典(洗礼式、聖餐式)、祝祷(派遣)
会衆の応答=罪の告白、賛美(讃美歌、頌栄)、祈り、信仰告白、説教への聴従、感謝の献金
先週の論壇では「招きの言葉」「罪の告白」「罪の赦しの宣言」を学びましたので、次のプログラム「聖書朗読」「説教」を学びます。教派によっては、アメリカ改革派教会、米国南長老教会などのように、礼拝における聖書朗読者に牧師・長老に準ずる一定の資格を要求する教会もあります。聖書朗読に重きをおいていることの現われです。
また1年間の聖書朗読スケジュールを決めている場合もあり、旧約聖書をまんべんなく朗読できるようカリキュラムが作られています。それは聖書朗読において選り好みをせず、全体を朗読することを心がけているからです。私は新約聖書説教時にはその説教に関係する限りにおいて、旧約聖書の該当箇所を朗読するようにしています。
これは説教における聖書テキストの選択にも関係してきます。パウロは「神の御計画をすべて、あなたがたに伝えた」(使徒言行録20:27)と言います。これは口語訳聖書では「神のみ旨をみな、あますところなく伝えた」と、より良い翻訳になっています。パウロは聖書全体を説教したのです。日本では旧約聖書が説教されることが少なく、「神の義」「神の怒り」「計画をもって歴史全体を導く神」などの基本的教理の教えが欠落しがちで、故榊原康夫先生の言葉を借りるなら「甘いキリスト教観」を持つ信者を作ってしまいます。確かに罪に対する神の怒りの恐ろしさを知るから、イエスの十字架のありがたさが分かるのです。
私は朝夕の礼拝、週日の祈祷会と、全体を見るなら旧・新両約聖書全体を取り上げてきましたが、皆さんは朝の礼拝だけというのがほとんどですから、旧約聖書の説教を聞くチャンスがあまりありません。私の説教集『旧約聖書の歴史』で補っていただきたいと思います。
改革派教会の説教はほとんどが聖書の連続講解です。これは「聖書をていねいに解説すれば、聖霊が一人一人の心に働きかけ、自然に適応してくださる」という信頼を持っているからです。しかし説教が聖書勉強会になってしまって、学校の授業のようなたいくつなものになってしまうという批判もあります。「その説教が私の生活と何のかかわりがあるのか」という点まで広げないと現代人には受けないのでしょうか。