論壇: 聖餐式は魂の糧 10/3/2021
聖餐式はイエス・キリストが制定された、世々のキリスト教会が守るべき礼拝の儀式です。しかし「取って食べなさい。これはわたしの体である」(マタイ26:26)というイエスの言葉をどう理解するかによって、キリスト教会の中で主に四つの解釈の違いがあります。
ローマ・カトリック教会は、パンはキリストの体に、ワインは血に「聖変化」すると考えます。スイスの宗教改革者ツヴィングリは、パンとワインは物理的に変わるのではない。それらは象徴に過ぎないと言いました。
ルター派は、キリストの体は聖餐式において品々と共に存在するという「共在説」を唱えました。カルヴァンは、キリストの体を地上に求めてはいけない。聖餐を受ける時、信者の霊魂は聖霊によって復活のキリストの元に運ばれ、そこにおいてキリストの肉と血に与ると言いました。
キリストは自分の体の前でパンを持ちながら「これは私の体である」とおっしゃったのですから、これは象徴的な動作です。日本では「目に入れても痛くないほど可愛い」とか「食べてしまいたいほど可愛い」という表現がありますが、これを文字通り解釈する人はいません。
ユダヤ人たちはイエスの言葉の深い意味を考えず、文字通り受け止めて批判しました。ヨハネ福音書を読むと様々な例が書かれています。ニコデモは「人は新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」というイエスの言葉を聞いて「年取った者が…もう一度母親の胎内に入ることはできない」(ヨハネ3:3、4)と言いました。また「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」というイエスの言葉に対してユダヤ人たちは「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか」と多くの弟子たちが去っていきました(ヨハネ6:53―66)。
聖餐式は私たちが「歴史的信仰」を持つための教育手段です。キリストが聖餐式を命令されたのは過越祭の最中でした。出エジプト時の神の介入を思い起こし「私もあの時出エジプトしたのだ」と過去を「現在化」して信仰告白したのが過越祭の意味です。しかし羊ではなく最後の犠牲であるイエスが捧げられたことによって過越祭はこれで終わりです。
イエスはこれまでの過越祭の意味に加えて、復活のイエスと共に味わう神の国での盛大な宴会という未来を、この聖餐式制定によって「現在化」されました。聖餐式は過去と未来と私たちが一つになる聖なる儀式です。
私たちの肉体を養うためにはパンが必要です。私たちは必ず定期的に食事をします。それなら魂を養うためにも定期的な聖餐式が必要です。聖餐式によって私たちはイエスの十字架の苦難を偲び、同時に神の国の宴会の前味を味わうのです。